昭和40年12月27日 朝の御理解 ★
卑しくも信心の稽古をさせて頂いて、その、信心によって助かっていこうと、それも、自分も助かり人も助かり、全部が、立ち行くようなおかげを受けたいと願わせて頂くもの、すべからずここのところだけは忘れてはならんという所がある。
信心によって、えー、幸せを願う、信心によって本当の助かりを願う。ね。本気で信心の稽古をさせて頂いて美しくもなろう、そして、信心によって、終始有り難い勿体無いという生活。いわゆる、安心の生活を送りたいと願うものは、自分が助かるという事と同時に人も助かる。人も立ち行く。自分も立ち行き、相手も立ち行くという立ち行き方。そこを、願わせて頂かなければならん。
昨日、あるお届けをさせて頂いた。あるちょっとしたまあ事件事なんですね。んー、ですから、こちらも、どこまでも信心でいきたい。ところがどうもその、相手が理不尽な事を言う。もう本当に、えー、情も容赦もないような事を言うておる。ですから、こちらが信心でまあ言っておるもんですから。んーそこにその、昨日、その事が、その事で交渉に行かれる。
向こうがですね、こちらの思うように出てくれば問題なのですけれども、ね、こう出て来るかも分からない、ああ出てくるかも分からない。こう出てきた時にはこういういき方。ああ出てきたときにはこう受けよう。とその、思うておりますとこういう事なんです。誰でもそういう事を思うんですね。何事かで、一つの交渉なら交渉をします。向こうはこう出るかもしれん。向こうはこういう風に、そん時はこちらはもうこういう風にああ言う風に出ろうをいわゆる、作戦を練っていくわけなんです。ね。
★そしたらその、私、御神眼に頂きますのが、んーあの、先日あの10月でしたか、先月ですねあの、久留米に(?)お芝居を見に行った時にあの、(?)というのを見ました。初めて見た。新作物なんですね。新作物というても随分前から出来ておるのですけれども。えー、山崎街道 忠臣蔵の中にありますよね、あの、(?)イノシシをおって、かんぺいが出てくる所、そして、(?)金を取り上げるというあのお芝居なんです。それを作り替えたお芝居。(?)というのを見ました。
中々良いお芝居。ね。あのもう、こしらえなんかでも、(?)と同じ。もう白塗りにもうその( ? )同じようなその、扮装なんですね。これの、黒の紋付の紋付に( ? )と言った格好。女だてらにあの、いわゆる人を脅迫したり脅したりしてから、生活をしておるといったようなお芝居。やはりあの、(?)蛇の目の傘を持って(?)走って出てくるようなところなんですが。
その、女柘榴の扮装でですね、やはり蛇の目を持っているんです。そして、( ? )昔の一つのあの、あー、時代考証の為にですね、あの時分お風呂に参りますときに必ず今ごろのように石鹸がないもんですから、ぬか袋というものを持っていったですね。ね。ぬか袋をこんなに作ってもう紐がついているんです。それをちょっとこのそれこそ、荒ぽ口に加えてそして、蛇の目の傘を差しておるその、(?)。まあそういう情景なんです。
それから私は感じたんですね。ははあ、卑しくも磨く事を願うておるもの、卑しくも信心によって安心のおかげを頂こうと願うものがです、ね、私共、ぬか袋は磨くものだとこう思った。蛇の目の傘をこう持っておるのは、傘はお知らせに安心と仰るのですからね。磨く事を願わせてもらい、そして、信心によって安心のおかげ、ありがたし、勿体なしの生活をさせて頂こうと願うものはです、( ? )お芝居なんです。ね。そしてその、向こうがこう出たならばああいこうと、そして、どうでもその、向こうのその、弱点を握ってですね、まあ、こちらだけが立ち行こうとしておるお芝居なんですね。
本当に私共が信心のけいこをさせて頂いておりますけれどもですね、どうぞ、どうぞあの、どういうような場合でも相手が立ち行きますように、という願いでなからなければならいない。同時に私も立ち行きますようにというものでなからいかん。
卑しくもぬか袋を持つ、卑しくもいわゆる蛇の目の傘を願いとする者の行き方、あり方というのは、そこでなからなければならない。それが、相手がその私の敵役のような役を務めておるその人の事であっても、その、相手役のその人が相手が立ち行くおかげ。
先日、昨日一昨日の御理解でしたね。ある方がお届けをしたその嫁さんがあんまり家風に合わないのですよね。息子ももう、もう時分所の家風に合わんなら、まあ里に帰っておるけれども迎えにいかんとこういう訳なんです。
お母さんもまあ向こうで息子が言うようにこちらの家風に本気で填まっていこうという、精進いわゆる努力をしないならばまあ、そのままというような事だったんですね。
それであの、これからはあの、「断酒の心菊作り」とね。「どれほどかお手間かけしぞ菊の花」というあの句を頂いて、あの御理解を頂いてもう、帰らせて頂きながら帰り道々、本当にそうだったとこう言う風に自分で気付かせてもろうて、もうこれからは嫁のために自分が好きなもの一つでも断ってからでも修行をさせてもらおうと。
その事を息子にも伝えさせてもらおうと。そして、向こうが分からなければ呼びにはいかんというものではなくて、さあ、明日の日曜日には確かに待っておるに違いないから、迎えにもいこうという気持ちで話させて頂いたら、それはそうね、ほんなら僕は今から迎えに行ってくるかと(?)電話かけていきなさいというてからその、それで電話したところがもうそれこそ飛び立つ思いでその、電話でそれが響いてくるというわけなんですね。 もう本当に、いつも迎えに来て下さり冷や冷やしておる。それで、迎えにいってからすぐに帰ってからもう、打ってかわったようにですね、まあ、(?)気に入るように気に入るようにと勤めておるその、出来なくても務めておるそれで何かその、いじらしくてたまらんものを感じましたというて昨日お礼に出て来ておりました。ね。
いわゆる、その向こうの電話が悪かなら、こっちもこの迎えにいくだんじゃなかといったようなですね、もう、その、向こうが向こうならこっちもこっちというのではなくてですね、向こうも立ち行くようなですおかげを頂く時に、こちらも立ち行いておるという事。
卑しくもいわゆる磨く事。卑しくもその信心によって喜びの生活、安心の生活を送ろうとするものはです、例えば、向こうの出方がどうであろうとも、向こうも立ち行くようにという願いの元に信心が進められて行かなければならない。そこにです、いわば、断酒の心、いわゆる好きなもの一つぐらい断ってでも修行の一つぐらいさせて頂いても、というような、え、相手が気の毒な人、相手がかわいそうな人ならばです、その事を祈りもすれば、願いもするのだけれども、ね、向こうのほうの出方生き方が、あの、本当に、(?)ばかりではない事が多いのです。だから、向こうの出方が(?)向こうがあげん出てくるならこっちもあれで出て行こうというようなその、事をですね、思うてもならない。
これは本当にいわば純信仰でそこを切り抜けさせてもらい、純信仰によって私共が助かっていこうというすべからずそうでなからなければならないという事。ね。
皆さんよくお取次なさいます時にです、皆が立ち行きますようなという願いをなさいます。ね。いうなら、立ち行かなければならない。私だけの立ち行きだけを願うというのではない、そういう風に願っておりながら、そうして災い、ね、相手が、そういう相手が出方が悪いならこちらもこうでろう、こう出たならああでろうといわゆる作戦を練っていくようなことではです、いつまで経ってもやはりその戦いは終わらないというわけなんです。終戦にはならないという事。
いつもそういう一つの統括というかね、もつれというのはいつもある。ね。確かに向こうは悪の事を考えておっても、こちらがその、悪のその心の中にです、それこそあの、「郵便ポスト」の中にはですね、もう様々な手紙が入っておる。敵方の手紙が入りゃあ、味方の、いわゆる味方という事はないでしょうけれども、その、様々な問題をポストのお腹の中に入れる。ある時、ポストは考えた。これが、あの人の手に入り、これがあの人の手になればですもう喧嘩になるような事があるかもしれない。けれども、そこんところは、どうぞその、ポストが祈っておるわけなんですね。皆が立ち行くように。
私は、神様もそうではなかろうかと思うのですね。ああだ、こうだと色々な思いをこういわば思いをこう巡らせておる。両方の者が。けれども、それを中で御覧になっておる神様はです、それでもこれも立ち行けばこれも立ち行く、あげんしたところでかわいい氏子である、これしたところで、やはり自分の子供であるという事になれば皆が立ち行く事を親が願わないはずがない。
ね。そこに私は神様のお喜びが頂けれる、おかげ、そういう事をもって磨かせてもらい、いよいよ安心のおかげを頂けれるような、おかげが頂けてくるのではないかとこういう風に思うのですね。本当に、皆が立ち行くようなおかげを願わせ頂く内容としてです、どんな場合でもです、相手も立ち行かなければならないという卑しくも、磨く事を、卑しくも喜びの生活を送りたい、安心の生活を送りたい、願いをそこに願いをおいての信心の稽古をさせて頂く者すべからずです、ね、そういう思いにならせて頂ければ、あちらも立ち行くこちらも立ち行くというおかげになってくると思うのですね。 どうぞ